昭和46年 4月30日 朝の御理解(若先生)
 
御理解第70節 参照


 親先生の御理解をあの、聞いて頂きよりますとよく分かりますように、親先生の御理解の中には、道理を説かれる万物を見て、道理を説かれる事が非常に多いですね。それと、自然を親先生が言われた事があるのですけれども、「自然を教師として、お育て頂く事が一番間違いが無いようです」と言うことを言われた事があるんですけれども、確かにそうだなと私は思わせて頂くんですけれども、ですから、どんなに頭の中でひねくりまわして、ああじゃなかろうか、こうじゃなかろうかと想うよりも、天地自然を、の、道理に合わせて頂くというのが、一番良いようです。私達が、人間が生きて行く上において「恥じを知る」と言うことがあるですね。「恥じを知る」と言うことを知らない人があるんです。特にあの、ちょっと可笑しい事になってくるのですけれども、この、「恥じを知る」と言うことは、一番最初はあの、アダムとイブの時代にイブですか、女の方が鳥に騙されまして、ここに美味しい果物があるから、食べないかということであの、りんごを食べてしまうのですね、その食べた瞬間に恥ずかしゅうなってきたんです、自分が裸であると言うことにきずいたのです。だから、女性の象徴である大事な所を銀杏の葉ですか、で隠したというのが恥じを知る、一番最初に恥じを知ったと言うことなんです。それから人間の罪悪が生まれたと言うことです。これは、まさかあの、まんざらうそでもないように思いますね。私達がやっぱりしてはならない事をする時に恥じを知るのです。ですから、あの、それと同時に恥じを知るという事は良い事です。と思います。知らねばならない事だと思います。例えば、私達の生活に(         )上においても、天地の中に昼と夜がある、明るい時間と暗い夜があると言うことです。ですから、人間も隠さねばならない所があるんですね、それを、隠さなければならない所を隠さない、は、ならない所を隠さない人がいますし、隠してはならない所を隠す人がいる。所に人間の不幸がある。例えば私達が日常生活の中に、腹を立てるという様な事がありますけれども、これは、あの、腹を立てねばならない時と、腹を立ててはならない時があるようです。そこの所の使い分けといいますか、判別をして行くと言うことが、これが信心だと思いますね。なんと分ったような分からんような話をしておるのですけれども、えー、今朝はあのなんですか、いつもはなんともなく神様からヒントを頂くのですけれども、とうとう祖先讃辞があがるまで、何にもあの頂かないのですね、ヒントを頂かない神様から(         )思うのですけれども、頂かないのです。そして、光昭君が一番最後の祖先讃辞の一番最後にきた(             )あそこをあげよる時に、その、ちょうどここに、(        )。「糖尿病は治る」というのがある。ここに、おいてあるのですね。親先生がここにおかれたもの、なんで置かれたのだろうかと思うのです。だれが持って来たのか知らないのですけれども、親先生が求められたものじゃないと思うのですけれども。僕らだったら絶対ここにおかないですね。まず、ここに置くですね。こんな本をですね。そこに私の信心のやっぱりあの、病弱さがあるのです。皆さんに見せたくないものがある。こんな弱みは見せたくない。ところが、親先生のほうからこちらからみても、あーあんな本を親先生は読みよなっしゃるとやろうかというような、(                        )。そこに、親先生の信心のいわゆる健康 さがある、明るさがあると思うのですね。えー、それをこうひっくるめてです、だからあの、たしょう話がちぐはぐになった所があったんですね、まあ、私達の生活の中に、まー、昼と夜があるように明るさと暗さがあってもいいのだけれども、いいんですけれども、そこの所の判別の仕方と言うことと、恥じを知ると言うことをしった人間、知ったと言うことを一つねやっぱりこうだと想うのだけれども、その業を本気で自覚するという事。恥じをしると言う事、そこの所をいろいろ申しましたですね。まあどういうふうにまとめていいか分かりませんが、御理解第70節「人間は万物の霊長であるから、万物を見てどうりに逢う信心をせよという所から、一つ皆さんで、いろいろと考えて頂きたいとおもう、一つあーその親先生の御態度の中からまあー親先生の信心の健康さという物を分らせて頂いたと言うことで、今日の御理解を終らせて頂きたいと・・・